機械仕掛けの神


 頑丈そうなドアにはめこまれたすりガラスの奥は、闇に閉ざされていた。普段ならもう誰も残っていないと思うところだが、今日に限ってはそうでないことはわかっている。案の定、鍵は開いていた。無用心な。そう舌打ちしてドアを引いた。昼間に来れば受付の事務員が出迎えるはずの部屋は電気が落とされているが、奥の一部屋、この事務所の主の居室の閉められたドアの隙間から細く灯りが洩れているのが見えた。ノックもせずにそのドアを開け、ただ一言だけ告げた。

「―――終わったよ」

 いつもなら私の無作法を咎めるはずの弁護士は、ただ顔をあげて「そうか」とだけ呟いた。私の言葉を予期していながら、万が一にもそうではない答えがこぼれるのを待っていた。そうとれる複雑な表情をして、うなだれた。机の上には、火の入っていないパイプが一本転がっているだけだ。他に書類のひとつもなく、この時間までただ為す術もなく一人で考え込んでいたことを窺わせる。
 また一人の物思いに戻ってしまった男をよそに、勝手知ったる他人の事務所とばかりに、灰皿を見つけだした。ソファにかけ、足を投げ出して煙草に火をつける。1本、2本。いつもより少し早いペースでシガリロが灰になる間、俺もキドニーも無言のままだった。3本目。パッケージから取り出そうとしたとき、うつむいたままで急にキドニーが呟いた。
「なあ、叶。俺はどうしたらいい―――」
「どうしたらいいと言われてもな。俺が答える筋合いじゃない。おまえが決めることだ」
「おまえにだって、最初に人を殺したときがあっただろう―――おまえはどうだったんだ」
「別になにも」
 いつが最初だったのかなんて、そんなことはよく覚えていない。女を追う途中で、もしかしたら二人くらいは殺したかもしれない。よくわからなかった。はっきりとこの手で俺が殺したと自覚をしたのは、モザンビークでのこと。だから、こう答えた。
「俺が最初に殺したのは―――女だったよ。俺の」
 今までそのことを口にしたことはなかったから。さすがに出鼻をくじかれたと見える。言葉を失ったらしいキドニーにただ事実だけを告げた。
「別に何もなかった。ただ目の前の女が死んだ。その女は俺を裏切った。それだけのことだ」
 口を開こうとして、言葉を見つけられなかったのか。しばらくの間、部屋の中に沈黙が落ちた。その重さに私が耐えられなくなり、口を開こうとした時、ぽつりとキドニーが呟いた。
「どうやって眠ればいいのかわからないんだ」
 どこかにそんな話があった。殺した王の顔がちらついて離れない。眠ることができない。あの老人の躰にこれほどの血があったとは―――シェイクスピアの一節―――そんな観念的な後悔になど、意味はないのに。
「ふん―――マクベスは眠りを殺した、か?」
「茶化すな」
 いらだたしげな声。
「別に茶化したわけでもないけどな。素直な感想だ」
 パッケージから取り出した3本目のシガリロをくわえようとあげた左手を止め、俺は口を開いた。
「なあ、キドニー。デウス・エクス・マキーナという言葉を知っているか」
「……おまえのお喋りに今つきあう気にはなれない」
「いいから聴け」
 抗議の言葉に半ばかぶせ、押し切るようにして言うと、キドニーは反論するかのようにほんの少しだけ口を開き、また黙り込んだ。
「機械仕掛けの神のことをそう言うんだ。そう言えばわかるんじゃないのか」
 成文法というよりは判例の積み重ねで成り立っている米英の場合、法律家でも人文系の知識の素養は半端なものではないと以前に聴いた覚えがある。日本の学者でも、あちらの影響が強くて神話や聖書だの古典の一節を論文に引用したがる連中がいるのだと。前にそう苦笑交じりに目の前の男がこぼしていたのを覚えている。
「さあ……なんだったか」
 本当に覚えていないのか、それとも真面目に答える気がないのか。目の前の弁護士は力なく、そうとだけ虚ろに呟いた。
「ギリシアの古典劇だ。物語の最後に現れて、混乱して収拾のつかない物語を一気に解決してみせる神のことだ」

 機械仕掛けの神。人間の傲慢を断罪し、神の視点から悲劇を解決する神。舞台装置として作られた巨大な仕掛けは醜悪で、躰の中に絶対の神の存在に対する信仰を抱いていない人間にとって、その結末はあまりにも唐突だ。強烈な違和感。ご都合主義というよりも、その一方的な結末は見ている人間にとって居心地の悪ささえ覚えさせるものがあった。

「だとしたら、それがどうした」
 無駄口をたたくものだと。そう思ったのだろう、はじめてこちらに視線を合わせるようにして睨みつけてくる。その目がわずかに充血していること、いらだたしげな声音の余裕のなさ、顔色が透析の前とはまた違った意味で悪いこと―――目の前の男がうちのめされているのだということに改めて気付かされる。

「この世界にそんなものはいないんだよ、キドニー」

 一瞬、私の言葉にあっけに取られたような顔をした男は、すぐにきつい目で睨み返した。
 なにを今更。そんな当たり前のことくらい、おまえに教えてもらわなくとも知っている。俺がいったいなんの仕事をしていると思っているんだ。どれだけ悲惨な事例を見てきたと思っている―――。吐き捨てるような言葉とともに微かな嘲笑を見せた弁護士に、私もあからさまな嘲笑を返す。

「ああ、そうさ。おまえはそんなことくらい知っている。だが、知っているくせに、そこから踏み出すために手を汚すことを嫌がるんだ。それは機械仕掛けの神を待っているのとどこが違う」

 行き詰まったまま立ち尽くしていたら、誰かが助けてくれる。自分に都合のいい結末を与えてくれる―――まるで御伽噺だ。川が氾濫して橋が落ちるのなら、何度でも架け直さなければならない。それが嫌であれば、泳ぐか船を使うしかない。自分の力を使うことなく、ただ神に川の怒りを静めてくれるよう祈る時代は終わった。神を切り捨てた人間は、その代わりに自分自身で困難を解決しなければならなくなったのだ。神など信じていないと口にしながら誰かが解決してくれることを願うのなら、それは神に祈るのとどこが違う。

「もう状況は破裂する寸前だったんだ。あんたが手をこまねいていれば、今頃は逆にあんたの方が、二度と覚めることのない眠りについていたはずだ。この世界に神などいない。なら、人間は生きる為に、切り抜けていく為に手を汚さざるを得ないんだ」

 自分の躰だけで生きぬこうとするあんたが。自分の命に誰よりも執着しているくせに、そうやって気持ちの上でだけ逃げようとする。自分に言い訳をするための逃げ道を探そうとする。だが、そんなことはきれいごとに過ぎない。あんたがどう考えようと、転がった死体はただの死体に過ぎないんだ―――。いつも軽口を叩いてばかりいる私の舌鋒の鋭さに戸惑ったかのように、目の前の弁護士はうつむいて己の手を見つめる。まるでその手が血塗れであるかのように。そしてその掌に首を折るように顔を埋めた。手を染めた生臭い血を顔になすりつけるかのように。顔をあげて鏡を見て、そこに見出した自分の顔が血塗れなら、自分が手を汚したのだと再確認できれば満足なのか。そんな彼を冷ややかに見下ろす。

「出ていけ。今はおまえの顔は見たくない」

 やっとのことで搾り出したようなキドニーのかすれ声に、口元を歪める。確かに、これほどまでに私が本音をぶつけたことはなかった。うつむいたまま顔をあげようとしないキドニーに、私は手に持ったままだったシガリロをパッケージに戻すと、ソファから立ち上がり、冷ややかな声を投げた。

「生憎と、坊主の知り合いはいない。いや、懺悔ならキリスト教かな。どちらにしても、神父にも牧師にも心当たりはない。何かを吐き出すのなら、医者でも呼ぶんだな」

 言い捨てて、部屋を出た。殊更に静かにドアを閉める。背後から追いかけてくる声はなかった。このあとキドニーがどうするのか。それは私の関知するところではない。誰しも人に感情の肩代わりをしてもらうことはできない。また、してやることもできない。だから、それは一人で心の整理をつけなければならないことなのだ。私ならその間、誰かに側にいて欲しいと思うことはないだろうし、もしそんな思いに駆られることがあったとしても、道具にいて欲しいとは言えないだろう。―――自分の人殺しの道具に。私が言ったとおり、坊主なり医者なりを呼ぶとしても、それはキドニーだけの問題だ。
 それで彼が潰れるなら。それは結局、キドニーがそれだけの強さをもたなかったというだけの話だ。我ながら驚くほど冷淡になっている自分がいる。久々の銃の先の手応えに、もしかしたら私自身が興奮しているのかもしれない。―――何を今更。そう、自分を嘲笑うだけの余裕はまだ残っているけれど。標的を待つ間、指をかける瞬間。その時確かに私は言い様のない興奮に囚われている。けれど冷静にターゲットを狙う判断力とは別の次元で熱くなる頭をよそに、私の心の中には決して溶けることのない、冷たい空虚な芯があるのも事実だ。苛立ちを消すために、またシガリロを取りだして火をつけた。肺に深く紫煙を吸い込む。熱を持った頭に冷たく感じられる夜気が快かった。

 そう、殺した相手が皆、亡霊となって現れるのなら。今ごろ私は身動きもできないほどに、殺した連中に縛られているだろう。この世界に神などいない。同じように、亡霊もいやしない。あるのはただの自分の中の「良心」とやらだ。立ち現れるのは自分の記憶の欠片に過ぎない。

 けれど、もし。ほんとうに亡霊がいるのだとしたら。

 背後から柔らかな手が伸びる。褐色の手が緩やかに私の首に絡みつき、耳元で低い声がゆっくりと囁く。愛していたのに。その静かな声が紡ぐ言葉の続きを私は夢想する。それはまるで、甘い睦言。昼も夜も、鏡に映る私の姿のうしろには、笑みを浮かべた黒い女の姿がまとわりついている。濡れた声が私の心を少しずつ溶かしていく。緩慢に注ぎ込まれる、遅効性の毒のように。
 もしかしたら、その毒が私の躰の中の空虚を満たしてくれたかもしれない―――けれど、あの女はついに現れることはなかった。そうして私は、聞くことができなかったあの女の言葉の続きにいつまでも心の一部を縛られ続けている―――たとえ、それがほんのわずかなものであったとしても。それこそが、私に対するあの女からの最大の復讐なのかもしれない。

――――――くだらない。

 抑え切れない苛立ちを捨てるように、まだ長いままのシガリロを道に投げ捨て、踏みにじった。いずれにせよ、私はそんなものがいないことを知っている。そのことを、キドニーは理解しなくてはならない―――他人の死を背負ってこれからも生きていく為に。いままですべての問題を自分の頭脳によって解決してきたという自負のある弁護士にとって、私という「道具」を使ったことは辛いことであったのだろう。その彼に対し、さきほどの私の態度は少々大人げないものではあったかもしれないが、言った内容について私は決して撤回しようとは思っていない。ただ、それは人に言われて理解できるものではなく、結局のところは自分自身がその解決策を見つけるしかないのだ。多分、その解決の為の最大の特効薬は「時間」だろう。おそらく、整理のつかないままに私の顔を見れば、またあの混乱を思い出すに違いない。だから、少しの間、この街を離れることにした。私にとっても、この理由のつかない苛立ちを呑み込むだけの時間が必要なのだと、そう自分自身に言い聞かせながら。

 人を殺したとか手を汚したとか。そんな個人の思いとは関係なく、今日という時間はいつもと同じように流れていくのだと―――そのことに早く気付けばいい。

 けれど、そのことを悔やもうとする、キドニーの人間らしさを、ほんの少しだけ羨ましく思った。

 最初の骸が転がったときにすら何も感じなかった。ただぼんやりとこれで戻れなくなったのかと思っただけだった―――どこへ戻ろうと思っていたのか。まだ戻れると思っていたのだろうか。今思えば笑うしかないが―――結局、私が感じたことはただそれだけでしかなかった。引きがねを引く前も引いた後も、私という人間の本質に違いなどない。赤い血と部屋を舐める赤い炎と。熱い空気の中で、躰の芯が逆にこれ以上ないほどに冷えていることを自覚したとき、私はようやくはっきりと自分がこれまでの道を―――人殺しだという父親と自分は違うのだと、ただそう示す為だけに踏み止まろうとしていた道を―――踏み外したのだと理解した。人の骸を前にそんなことしか考えられない自分。人殺しの血。呪いのように口の中でその言葉を転がしたのち、私はふり返ることもなくその部屋を後にした。そうして今、私はここにいる。

――――――私の中のこの空虚は、いったいどこへ行くのだろう。

【Fin】
20020623


仲が悪めの叶とキドニーを書いてみようと思ったのですが(・・・なんでかなー。私がやさぐれてたのでしょうか)、
昨日、大間違いをしていることに気付きました。

…叶が仕事が終わったと知らせてくるのは電話でした……。
キドニーが桜内呼んだのって、叶から連絡来る前だって!!(脱力)

なんとか直そうかと思ったのですが、
もうどう修正していいのやら判らないので(なにしろもう長いこと書いてたから……)、
このままアップしてみます。
ゴメンなさい。
「IFもの」ということで。
この世界においては、叶が大屋荘の仕事をしたのは夜中で、
自分で知らせに来たということで見逃してください……。
<ちゃんと原作は確認しましょうね。

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